みちのく金融マンのつぶやきブログ(旧「メタセコイアの宿り木で」)

みちのくを拠点に生活している金融業界歴十数年のサラリーマンです。心と身体を休めつつ、はんなりとした日々を送っています。

「書く」ということ②

先日、「書く」ということという記事(6/1)で書いたが、書くという行為には先立って言語化があり、ひいては物事の本質を理解するということが必要となる。ここ最近のニュースを見ていると、世の中には、どうも言語化はできるものの物事の本質を理解するというステップを踏むことができていない人もいるのではないかと思い至った。

いわゆる、「脊髄反射」的な人たちである。

 

某国大統領の抗議デモに関するつぶやきや、国内での某女性レスラーへの誹謗中傷といったのを目にすると暗澹たる気持ちとなる。前者は「公人(publicus)」という立場を最大限利用し、後者は「匿名」という隠れ蓑をまとって、(およそ言い表せない下品な)言葉で相手を攻撃する。彼らは、頭の中で出てきた単語を大して推敲することなく、そのまま投稿する。自由な言論ができるということは、民主主義にとって重要な要素の一つである。ただ、誰かにとっての正義は、もう一方にとっては不正義となりうる。これは、新型コロナウイルスの影響下で露わになった「自粛警察」にも同様にいえることだろう。

 

民主主義で大切なのは、対話であり、寛容さであり、そして言論の多様性(皆意見が異なることを理解し、尊重すること)だ。相手を打ちのめすのはそれとは異なり、ただの多数派による暴力である。

ネットで言葉を発しようとする際には、一旦呼吸を置いて、内容を再鑑してから(物事の本質を理解しようとしているか、又は言葉の暴力となっていないか)するのが健全な姿なのかもしれない。